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それも叩かれるわけですから、新聞をそーっと、恐々開けないければならないことが再三あって(笑)、緊張した3年10ヶ月でした。
人間の病気に関する大きな出来事がいくつかありました。
ハンセン病に始まり、在外被爆者の問題、ヤコブ病、そしてBSE、SARS、C型肝炎、その間にHIVの話もございましたし、疾病に関することだけでもいくつも問題がありました。
しかも裁判が絡んでいる問題がほとんどで、それらを一つ一つ解決していくというのは、なかなか難しいことでした。
そのほかにも過労死の問題がありましたしねぇ。
人間の体、生命に関わる話が非常に多かったですね。
完璧とはいきませんけども、一つ一つかなり前進させたと自分では思っています。
---その中でもハンセン病の解決は歴史的に大きな出来事だったと思いますが
ハンセン病の問題というのは長い歴史を引きずった話ですから、非常に大きな闘いだったと思います。
役所のほうは、控訴で固まっていましたから。
それは厚生労働省の中が固まっていただけでなく、法務省も、官邸の官僚組織も、すべてが控訴で固まっていました。
なにか渦を巻いて動いているといいますか、官僚組織が一つにまとまって動くというのはこれほど怖いことなのかと、官僚組織が集団的に動く怖さというのを初めて肌身に感じましたね。
それはダメだと、それに立ち向かうのはかなりの勇気がいることでした。
戦後プロミンという薬ができ、昭和30年代にはさらに新しい抗生物質も登場し、少なくとも昭和34,5年頃というのは、ハンセン病は完璧に治る病気だったわけです。
それで、昭和33年に世界中の医療者が集まって、「らい学会」という学会が日本で開かれたんです。
その学会で、療養所に隔離しておくことは間違いである、各国の政府に対して隔離政策をやめるように決議されたんです。
その学会に厚生省の役人も出席し、研究発表しているにもかかわらず、そのことが国民に伝えられなかった。
その「らい学会」すら、自分たちがそういう決議をしたことをオープンにしなかった。
だから医学界の責任も大きかったと私は思う。
だから、これはいってみれば半分は医者の責任だと。
医者である私が厚生大臣に立ったときには、その償いはぜひしなければならないという気持ちが、私には強かったですね。
---原告勝訴から控訴断念までの政治的決着について
小泉総理に「ぜひ患者さんに会ってほしい」ということを話したところ、「坂口さん、俺が会うのは最後だ。君が先に会ってくれ」と。
「私は当然会いますけれども、総理も会ってくれますか?」というと、「最後に会う」とこう言ったんです。
それで、私が会った後、その感想として控訴は断念すべきです、患者さんにぜひ会ってくださいと総理に言ったんですけど、だんだん会う日があとにずれ込んでいきました。
そして今日決めなければいけないという5月23日の朝、福田官房長官が総理官邸に私と法務大臣を呼びまして、「それぞれご意見をもう一度言ってください。坂口さんはどうですか?」。私は「控訴は断念すべきである」と言いました。
「それは坂口さんの意見ですか、それとも厚生労働省の意見ですか?」と福田さんは言いました。
「うちの役人諸君は反対の立場です。だけど、役人の言うことが厚生労働省の意見ということではない。私の意見だけが厚生労働省の意見ということもありえないかもしれない。しかし私は大臣を引き受けている以上、全体の責任を背負わなければいけない。私の立場で言えば反対です」とこう申し上げました。
次に法務大臣が「原告団の皆様方、患者の皆様方にお会いして、皆様の気持ちは痛いほどわかった。何とかしてあげなければいけないと思う。しかし、法務省としての立場で言うと控訴せざるを得ないという結論になった」。
法務大臣も、個人としてはここで決着をつけてあげたいという気持ちは持っている。
だけども、法務省の立場で言えば控訴せざるを得ないと。僕はそこで福田さんがどちらかに決めるんだと思ったんですが、「申し訳ないけども夕方まで待ってくれ、夕方にもう一度お会いしたい」ということになりました。
その間に、総理が15分間という予定で患者さんに会ったんですが、実際は15分が45分になったんです。
私は、午後から厚生労働委員会があったんですが、野党から次から次へと質問がくる。
それはもうハンセン病の話ばっかりですよ。
ハンセン病の議論をやっていたわけではないんですけど、他の話はほったらかしでハンセン病の話ばっかりです。
そこで「坂口さん、どうするんだ」とだんだん詰め寄られてきたわけですよ。
総理の決断で決まるのに、自分が先に言うことはできないので、結論は言わずにいたんですけど、控訴は断念しますといわんばかりのところまで答弁しているんです。
そこまで言ってしまったんですね。しかし、これで総理がもし控訴すると言ったら、自分は厚生労働大臣をやっているわけにはいかない、そのときには潔く辞表を出そうと思っていました。
覚悟を決めてやっていたんです。
5時に委員会が終わり、官邸に行くと、福田さんから「すぐ総理のところに行こう」と言われまして。
「総理のところに行くって、どうなんですか」と聞いたら、「坂口さん、いいから心配するな、行こう」。「心配するなといわれたって、結論は総理に聞かなければ分からないですから」と言ったら、私のすそを引っ張って、部屋の隅に連れて行かれまして、「坂口さん、大丈夫。あなたの言うとおりになるから、心配するな」と。
そんな一幕がありました。
あとで聞いた話なんですけども、総理が官僚に、控訴する、控訴しないのそれぞれの理由をまとめた書類を両方書いてこいと言ったんだそうです。
そうしたら「控訴すべし」というのが4,5センチの厚さで、「控訴断念」のほうは2,3枚のペーパーしかなかったそうですから、それだけ控訴するということで官僚は決意をしていたということです。
だけどよく小泉さんがそこで控訴断念を決意したと僕は思うんですよ。
よくぞ決意したと思います。
その直前に、患者の皆様方と45分間会ったことが大きく影響したと思います。
それと後日談ですけども、その日の毎日新聞朝刊に、「坂口大臣、辞任か」というのが1面のど真ん中に出たんですよ。
僕はそんなこと言ってないし、腹の中に収めていただけの話ですし、どこで誰が言ったのわからないですけども。
見た本人がびっくりしたわけですから。
「あれ、俺、辞めなきゃならねぇ」(笑)って。
それも総理に堪えたという話ですね。
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