幼い子どもたちの命が次々に奪われた

幼い子どもたちの命が次々に奪われた

夜が怖い。
病室の窓のカーテンを夜でも開けておいてほしい。
ベッドの上から見える風景は病室の窓越し。
目をつぶったら、二度と目を覚ますことはないのではないか?
朝、目を覚ましたときに見える外の風景が生き延びた証。
夜が怖い。
少しでもいいからあかりを。

次々と仲間が亡くなっていく。
次は自分かもしれない。
新しい薬が開発されて生き延びられるかも。
やりたいことはたくさんある。

偏見・差別、親元を離れての入院生活
治療の見通しのない入院生活
不安、寂しさ、恐怖、さまざまな感情を抱えて
それでも、僕のなかでは感謝の気持ちでいっぱいだった。

自分の存在と向き合って、心を開いてくれた人たち。
「ありがとう」をもっと伝えたい。
自分が傷ついて、だからこそ人を傷つけない。

伝えれば分かってもらえる。理解者が増えていく。
正しい知識を。僕の思いを。「ありがとう」をもっと伝えたかった。

血友病者の悲劇 1983年 1人

血友病者の悲劇 1983年 1人

日本には約5000人の血友病患者がいます。血友病とは止血に必要な凝固因子が不足しているため、出血した場合に止まりにくい病気のことで、不足している凝固因子によって、血友病A(第8因子)、血友病B(第9因子)に分類されます。出血した場合の治療として用いられるのが血液製剤です。1970年代末になると国産のクリオ製剤よりも簡便な濃縮凝固因子製剤が登場し、治療に使用されるようになりました。しかしこれらの製剤にはウイルスを不活化するための加熱処理はされていませんでした。そしてこの中にあのエイズ原因ウイルス(HIV)が混入していたのです。80年代前半、アメリカから輸入された危険な非加熱製剤は、血友病専門医や製薬会社の社員の指導のもと、大量に使用されました。しかも加熱製剤の認可後も、危険な非加熱製剤はただちに回収されることなく使用され続けたのです。

薬害エイズ訴訟 1989年 91人

薬害エイズ訴訟 1989年 91人

厚生省が承認した非加熱血液製剤にHIVが混入していたことにより、主に1982年から85年にかけて、これを治療に使った血友病患者の4割、約2000人もがHIVに感染しました。被害者はいわれなき偏見により差別を受け社会から排除され、さらに感染告知が遅れ発病予防の治療を受けなかったことに加え、二次・三次感染の悲劇も生まれました。
こうした状況の中、被害患者とその遺族は1989年東京と大阪の地方裁判所に、非加熱製剤の危険性を認識しながらも、それを認可・販売した厚生省と製薬企業5社を被告とする損害賠償訴訟を起こしました。

歴史的な勝利へ 1996年 440人

歴史的な勝利へ 1996年 440人

裁判では厚生省や製薬企業がひた隠しにしてきた事実が次々に明らかになり、また提訴者も次第に増えていきました。社会からの支援も日増しに大きくなり、『薬害エイズ事件』は一大社会問題に発展していきました。こうして日本国中を巻き込んだ社会の大きなうねりは裁判所も揺り動かし、1996年3月被告が責任を全面的に認め和解が成立し、国は被害者救済を図るため原告らと協議をしながら各種の恒久対策を実現させることを約束しました。

真相究明と薬害根絶にむけて 1999年 497人

真相究明と薬害根絶にむけて 1999年 497人

和解成立後、安部英帝京大学教授、ミドリ十字元・前・現社長、松村明仁厚生省生物製剤課長が相次いで逮捕され、薬害エイズ事件に捜査当局のメスが入りました。「帝京大学ルート」、「ミドリ十字ルート」、「厚生省ルート」の3ルートの刑事裁判が始まり、真相究明がより進むことが期待されます。また薬害エイズ事件の反省から、1999年8月24日には厚生労働省内に薬害根絶『誓いの碑』が建立され、このような悲惨な被害が二度と起こることのないように、国の薬務行政に厳しい監視の目を光らせています。

誓いの碑

誓いの碑

命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモンHIV感染のような医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する

千数百名もの感染被害者を出した
「薬害エイズ」事件
このような事件の発生を反省し
この碑を建立した

平成11年8月 厚生省